王政復古から戊辰戦争へ
(文:鹿児島市維新ふるさと館 特別顧問 福田賢治氏)
○ 討幕への歩み
薩摩が「公武合体」から「討幕」へと方針転換したのは、慶応3年(1867)5月25日のことでした。その前日、京都で雄藩諸侯の島津久光(薩摩)、松平春嶽(福井)、山内容堂(土佐)、伊達宗城(上島)と将軍慶喜が会談、長州処分や兵庫開港の問題など幕政改革について協議しましたが、慶喜は幕府の権威をもって譲らず、ついに「四候会議」は決裂しました。その翌日の25日、薩摩は京都藩邸において、小松、西郷、大久保など藩首脳が藩邸会議を開き、「討幕やむなし」との結論に至り、それまでかたくなに公武合体を主張してきた久光も、ついに「公武合体から討幕へ」と、方針転換することを決意しました。
しかし、薩摩では門閥派を中心に、「鎌倉以来700年の歴史を誇る島津氏の存亡をかけた出兵」には反対論も根強く、そのため、一同は帰国して説得に当たる一方、雄藩諸藩に対しても、討幕決定の報告と討幕出兵を要請したのでした。
また、大久保は討幕反対者の説得と雄藩諸国への出兵要請を考え、洛北で謹慎中であった岩倉具視を訪ね、「討幕の密勅」を朝廷から出してもらうよう画策しました。これは慶喜が10月14日に「大政奉還」をしたことにより、取り下げられますが、薩摩は反対派説得と率兵上京の材料として極秘に利用したのでした。10月には、小松、西郷、大久保らは帰国途中山口により、毛利敬親父子に面会して出兵打ち合わせを行った後帰国し、11月13日には藩主忠義は西郷を伴い軍艦3隻に3千の兵を引き連れて出発、途中三田尻により毛利父子とも会見、23日京都に入ったのでした。
○ 「王政復古」から「鳥羽伏見の戦い」へ
慶応3年12月9日、京都に於いて「王政復古」が宣言され、それに伴い将軍慶喜の辞官・納地が決定し、これが二条城の慶喜に伝えられるや騒然となり、慶喜は不測の事態を避けるため、二条城から大阪城へと移ったのでした。
ところが12月25日、江戸市中を荒らす浪人たちが薩摩藩邸に逃げ込むことから、市中取り締まりの庄内藩などがいきりたち、薩摩藩邸を焼き討ちし、薩摩は50人が死亡、50人余りが船に避難、残りは捕虜となりました。この報が大阪城に伝わると、「薩摩打倒」の声が高まり、1万5千の幕府軍は鳥羽・伏見の両街道から京都の5千の薩長軍めざして進軍、ついに慶応4年1月3日、鳥羽・伏見の戦いが始まったのでした。
しかし、新式装備に勝る薩長の勢いに加え、大久保や岩倉らが事前に準備していた「錦旗の御旗」が翻るのを見た幕府軍は、自分たちは「賊軍」だと知り、急に戦闘意欲をなくして総崩れとなり、また、慶喜は兵を見捨てて夜中に船で江戸へ帰り、寛永寺にて自ら謹慎するとともに、篤姫や和宮に対して朝廷にとりなしをしてもらうよう依頼したのでした。
その後、新政府は東征大総督に有栖川宮熾仁親王を命じ、西郷はその参謀となり戊辰戦争が本格的に始まったのでした。