(著:鹿児島市維新ふるさと館 特別顧問 福田賢治氏)
薩長同盟の成立
文久3年(1863年)の「八・一八政変」や翌年7月の「禁門の変」など一連の対立により薩摩・会津勢に敗れた長州に対し、幕府はこれを機に第一次長州征伐を計画したが、参謀長となった西郷隆盛は、勝海舟の意見等も考慮し、長州に対し寛大な措置をもって戦わずして処理した。これを契機に、土佐の坂本龍馬や中岡慎太郎などが直接薩摩や長州に出向き、薩長間の融和を働きかけて説得した結果、慶応2年(1866年)1月21日、京都の近衛邸内「お花畑」といわれる小松帯刀の「有待庵」において、土佐藩の木戸孝允・品川弥次郎らを迎えて協議し薩長同盟が締結されたのである。
この薩長同盟は、「八・一八政変」や「禁門の変」など長州が起こした一連の事件は、冤罪から生じたものであるとの長州藩の意見を尊重し、その冤罪赦免に薩摩が尽力することを約束したものであった。
木戸は、このとき薩摩との間で話し合われ合意した事項を六箇条にまとめ、盟約に立ち会った坂本龍馬に送った。龍馬はその六箇条が書かれた書面の裏面に、話し合われた事項に相違がないことを朱書きして木戸へ送り返し、木戸はこれを藩に持ち帰り藩主に報告したのである。
龍馬が襲われた寺田屋事件
薩長同盟が結ばれた2日後の23日夜半過ぎ、龍馬は妻のお龍が働いている寺田屋に、龍馬の警護役として同行していた長州藩士の三吉慎蔵と酒を酌み交わし寝ようとしていた。風呂に入っていた妻のお龍が、外に伏見奉行所の捕り方が大勢来ているのに気付き、慌てて二階の龍馬らに告げたが、すでに伏見奉行所の捕り方が二階にまで迫ってきていた。三吉慎蔵は得意の槍で、龍馬は高杉晋作からもらった六連発銃で応戦したが、龍馬は右手を刀で払われ重症を負ったため、二人は裏階段から隣家の戸板をけ破り駆け抜けて裏通りへと逃れ、堀を渡って1町(約1090m)ばかり離れた材木問屋の小屋に身を潜めた。早朝、三吉慎蔵が助けを呼びに薩摩屋敷に駆け込んだところ、すでにお龍も来ていた。急を知った薩摩藩邸では、大山巌の兄の彦八らが船をだして新土佐堀に出向き、龍馬を救出したのである。この事件で、龍馬は3人の捕り方を射殺したため、以後も幕府のお尋ね者として追跡される身となったのである。
伏見の薩摩藩邸からすぐさま京都御所に隣接する薩摩の二本松藩邸(現同志社大学)へも急報、西郷隆盛は直ちに藩兵1個小隊を伏見藩邸に送り込み、更に、1個小隊を送って護衛とし、龍馬らを二本松藩邸に移して保護した。
龍馬夫妻を薩摩へ招待
同年の3月1日、薩摩藩は、薩長同盟成立の立役者である坂本龍馬の功績へのお礼と、傷の温泉療養を兼ねて、小松帯刀や西郷らが帰国する際、龍馬とお龍を同道して薩摩に招待、原良の小松帯刀別邸でもてなすとともに、その後、日当山温泉や妙見、塩浸など霧島山麓の各温泉地で療養させた。
今日、これをもっていわゆる「日本初の新婚旅行」としているが、その発着場となった天保山公園近くの太陽橋の袂には、昭和55年、日本芸術院会員中村晋也氏の作による「坂本龍馬新婚の旅碑」が建立されている。