(著:鹿児島市維新ふるさと館 特別顧問 福田賢治氏)
今年は「薩長同盟」締結150周年
幕末、中央政界において主導権争いを演じ、対立していた薩摩と長州が互いに歩み寄り、討幕へと突き進む契機となったのが薩長同盟であった。
薩長同盟が締結されたのは、慶応2年(1866年)1月21日のことで、今年はちょうど150周年にあたる。
寛大な措置で収めた西郷の「第一次長州征討」
長州は、元治元年(1864年)7月、「禁門の変(蛤御門の変)」を起こし、御所を守る薩摩や会津の軍勢に敗れた。幕府はこれを機に第一次長州征討令を出し、諸藩36藩を動員、尾張の徳川慶勝を征討総督に、西郷隆盛を参謀長に任命した。おりしも長州は、前年下関砲台から外国船を無差別砲撃したことに対する報復として、英・米・仏・蘭の四国艦隊から攻撃を受け、賠償金300万ドルを要求されていたこともあって、西郷は「国内の騒乱は外国勢力の侵攻助長につながる」と懸念。また、勝海舟との会談による助言等も考慮し、寛大な措置により、戦わずして長州問題を収める方策をとった。そのため、西郷は、長州藩自らが「禁門の変」を主導した家老たちを処分することによって事態収拾を図り、長州が匿っていた攘夷派公家の五卿を大宰府へ移し保護することで決着させた。こうした西郷の寛大な措置をきっかけとして、長州と薩摩の間に融和への気運が生じてきた。
坂本龍馬と中岡慎太郎の薩長同盟への関与
一方、坂本龍馬は海軍奉行となった勝海舟の下で、「神戸海軍操練所」の塾頭を務めていたが、池田屋事件の折、新選組が斬り込んだ際、浪士の中に海軍操練所の塾生がいたことから、勝は責任を問われて海軍奉行を罷免され、慶応元年(1865年)3月、神戸海軍操練所も閉鎖された。勝は龍馬や塾生など行く宛てのない者の世話を西郷に依頼。家老の小松帯刀は龍馬ら塾生を大阪の薩摩藩邸に引き取り保護した。
同年の5月1日、西郷と小松は龍馬らを伴い鹿児島へ帰国、龍馬は西郷宅や小松別邸などで過ごしたが、この間に薩摩藩の要人たちと会談、長州藩との和解を呼びかけた後、16日には鹿児島を立ち、熊本の横井小楠や大宰府の三条実美を訪問、近いうちに西郷が大宰府を訪問することを告げ、さらに下関に行き木戸孝允に西郷との会談を要請した。龍馬が鹿児島を出立した後、土佐藩を脱藩して以来、七卿(後に五卿)の警護役をしていた中岡慎太郎は、同僚の土方久元(土佐出身)とともに吉井幸輔(友実)に連れられて鹿児島に入り、島津久光に拝謁して薩長和解の必要を説くと同時に、西郷には上京の際、下関に立ち寄り、木戸と会談するという約束を取り付けた。