明治維新と薩摩藩

坂本龍馬とお龍 謎だらけの鹿児島城下での生活

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2016.08.01
  • 著者:東川 隆太郎

慶応2(1866)年3月5日に大坂を出航した龍馬らは、下関や長崎を経由して10日には鹿児島城下に到着した。その後16日から霧島への旅行に出かけ、4月12日に鹿児島城下へ戻る。そして6月1日に鹿児島城下を桜島丸にて離れ長崎へと向かっている。
つまり寺田屋襲撃以降の鹿児島潜伏期間は、約3ヶ月であり、そのうちの約2ヶ月は鹿児島城下に滞在していたと考えられている。その間の滞在先のひとつが、小松帯刀が原良に所有していた別邸だ。

現在は個人宅の中に庭の一部が残り、その築山からは桜島を望むことができる。また龍馬の記録によると4月14日には「改正所」に行ったとしており、これは薩摩藩が設置した洋学校の開成所と考えられる。他にもお龍が後に残した証言記録に、上町に屋敷を設けられたことが語られている。また、龍馬と親交もあった中村半次郎こと桐野利秋の妻の証言によると、吉野は実方の自宅に龍馬が訪ねて来たとある。鹿児島城下での行動が正確に把握されていないだけに、実方訪問は興味深い。詳細に行程などが記録された霧島旅行と違い、鹿児島城下での滞在は謎な部分も多いが、それだけにいろいろと想像が膨らみ面白い。

鹿児島行きのきっかけとなった寺田屋襲撃

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2016.07.01
  • 著者:東川 隆太郎

難産であった薩長同盟が締結されたが、その仲介的な役割を担った坂本龍馬は、安堵とともに定宿のひとつ伏見の寺田屋に慶応2(1866)年1月23日に落ち着く。

その日の夜半、同盟締結を察知していた幕府の捕吏が寺田屋を襲撃。龍馬は短銃で応戦し、どうにか寺田屋を脱出することには成功する。

襲撃の知らせを受けた薩摩藩は龍馬救出に藩兵を出し、材木置き場に潜伏していた龍馬を発見。薩摩藩の龍馬救出に際しては西郷隆盛の指示が大きかったと、後に龍馬は郷里へ手紙で伝えている。そこには「この時うれしきは、西郷吉之助は伏見の屋敷よりの早使より大気遣いにて、自ら短銃を玉込めし立ち出んとせし・・・」とあり、西郷は龍馬救出に気持ちも込めて尽力したことがうかがえる。

さて、龍馬は両手に重傷を負うなどしたため身体的には安静と治療、幕府からは身を潜ませることが必要となった。このふたつの条件を満たしてくれるのが、日本では南端の地であり治療に効果のある温泉豊富な鹿児島であった。

~薩長対立から「薩長同盟」締結への歩み(後編)~

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2016.06.07
  • 著者:福田 賢治

                 (著:鹿児島市維新ふるさと館 特別顧問 福田賢治氏)

薩長同盟の締結

木戸との会談を約束した西郷は、閏5月18日佐賀関に船着した際、大久保からの「至急上京せよ」との報に接し、中岡慎太郎だけを下船させ、自分はそのまま上京、木戸と会談する約束を破ったことから、下関で17日間待っていた木戸は激怒、龍馬や中岡も面子を潰され失望した。龍馬と中岡は上京して西郷と談判、西郷は約束を破ったことを謝ると同時に、長州が購入を望んでいる武器・艦船を薩摩名義で購入することを約束した。当時、外国商人が長州に武器・艦船を売ることを幕府が禁止していたからである。これにより長州は、新旧合せて7300挺の銃と艦船を購入できた。長崎から小松に随行して鹿児島に来た長州の井上馨は、長州との和解が真実であることを知り、帰国して藩主に報告した。長州藩主毛利父子は島津久光父子へ、武器、軍艦の購入斡旋のお礼に加え、「井上から薩摩のご様子を詳しく知り、万端氷解におよびました」との親書が届けられた。また、親書が届いた直後の9月21日、第二次長州征討令の勅命が出されたが、大久保利通は「非義の勅命は勅命に非ず」と抗議し、薩摩は出兵にも応じないことを朝廷や幕府に明言したこともあって、長州との信頼関係は急速に高まった。また、事が起きて薩摩が率兵上京する際は、長州が薩摩の兵糧米を確保するという約束も取り交わされた。

こうしたことから、薩長融和から同盟への気運が一層高まり、慶応2年(1866年)1月8日、木戸や品川弥次郎らは上京して薩摩藩邸へ入った。龍馬は遅れて20日に藩邸へ入ったところ、まだ何の話もなされていないばかりか、木戸は薩摩からの話がないとして帰り支度をしていたことに驚き、木戸・西郷どちらも藩の面子を捨てて話合うよう説得、その翌日、薩長同盟は成立した。

薩長同盟「密約六箇条」の概要

薩長同盟が締結されたとはいえ、薩摩は元来、同盟・密約といっても、正式には文書としては残さないのが慣例であり、そのため、木戸は会談後に会談内容を自ら六箇条にまとめ、それを龍馬に送り、龍馬がその文書の裏に朱書して証明したのが「密約六箇条」として現在残されている史料である。その内容は

第一に、幕長間で戦いが始まったら、薩摩は兵3千ほどで京・大阪を固め、幕府を牽制すること、第二は、長州が勝ったら、薩摩は朝廷へ長州の立場を説明し弁護すること、第三は、もし長州が負けても、半年ないし1年は持ちこたえるので、薩摩は長州のために尽力すること、第四に、戦にならずに幕府が兵を引き上げたら、薩摩は朝廷へ長州の無実を証明するよう尽力すること、第五に、もし長州が京都に進出したとき、これを拒むものがいたら、薩摩はこれに決戦の覚悟を以て臨むこと、第六に、朝廷から長州冤罪のお許しが出たら、双方誠意をもって皇国の御為に砕身尽力すること、以上六箇条がその概要であった。

薩長同盟の成立の日には諸説あり

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2016.06.01
  • 著者:東川 隆太郎

慶応2(1866)年、犬猿の仲であった薩摩藩と長州藩が同盟を結ぶという歴史的出来事が発生する。ただ、その締結日に関しては諸説あるようだ。

ひとつが1月20日という説。この日の午後に大久保利通が国元へと出発しており、これは同盟締結を報告するためではないかと考えられている。

次に1月21日という説。これについては、坂本龍馬の警護をしていた長州藩士三吉慎蔵のこの日の日記に同盟締結をうかがわす文言がある。

さらに1月22日という説は、坂本龍馬の記録に西郷と小松と桂と会ったことが記されていることが根拠となっている。どれも史料から推測されたものであるが、すべてを突き合わせると近年は1月21日が有力ではないかと言われている。

ちなみに1月23日になると桂小五郎が坂本龍馬に対して、同盟の裏書を依頼している書簡があるので、確実にこの日以前ということになるだろう。まさに、極秘の同盟なだけに謎が残るのも当たり前といえよう。

薩長同盟前夜 その2 さらに苦境に立たされる長州藩

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2016.05.01
  • 著者:東川 隆太郎

元治元(1864)年11月の幕府主導による第一次長州征伐と、そのきっかけとなった禁門の変の間に、長州藩は下関においてイギリスやアメリカなどの四か国と砲火を交え、砲台等を占拠される事態となった。こうした藩の存亡すら危うい状況に立たされていたなかで約15万人もの征長軍を迎えなければならなかったのである。

ただ、征長軍参謀の西郷は長州藩が体制を維持し降伏する道を模索し、これは実現に至ったが、幕府にとっては不完全燃焼といえる結果であった。長州藩も体制は保持されたといえ、降伏したことに変わりはなく、西郷のいる薩摩藩とさらに深い溝が生じることになった。

そうしたなか、長州藩では内部クーデターが発生し、「武備恭順」が藩是となり、幕府との対決姿勢が鮮明になった。そしてこうした状況を打破するために新式の銃や蒸気船の購入は必要不可欠となり、その頼みの綱が犬猿の仲である薩摩藩だったのである。

薩長同盟前夜 その1 犬猿の仲の両藩の動き

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2016.04.11
  • 著者:東川 隆太郎

慶応2年1月に京都で締結された薩長同盟。まずは同盟締結直前の両藩の政治的状況を紐解いてみたい。

文久3(1863)年8月18日、長州藩が朝廷警護の役割を会津・薩摩両藩に奪われ、また攘夷論を基に行動していた公家らを連れて都から逃れる事件が発生する。これが七卿落ちとも呼ばれる八月十八日の政変である。
この出来事を起源として長州藩は朝廷における政治主導を挽回すべく、軍勢ともに京都に集結する。これに対抗すべく会津・薩摩両藩も軍事行動に着手し、元治元(1864)年7月についに軍事衝突することになる。これが禁門の変である。
朝廷に対して軍事行動に出た長州藩は窮地に陥り、幕府も長州に対して強硬な態度で臨むようになる。これが第一次長州征伐へとつながり、西郷隆盛はその参謀として参戦した。しかし、西郷の行動は幕府にとっては満足できるものではなかった。

~薩長対立から「薩長同盟」締結への歩み(前編)~

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2016.03.04
  • 著者:福田 賢治

(著:鹿児島市維新ふるさと館 特別顧問 福田賢治氏)

今年は「薩長同盟」締結150周年

幕末、中央政界において主導権争いを演じ、対立していた薩摩と長州が互いに歩み寄り、討幕へと突き進む契機となったのが薩長同盟であった。

薩長同盟が締結されたのは、慶応2年(1866年)1月21日のことで、今年はちょうど150周年にあたる。

寛大な措置で収めた西郷の「第一次長州征討」

長州は、元治元年(1864年)7月、「禁門の変(蛤御門の変)」を起こし、御所を守る薩摩や会津の軍勢に敗れた。幕府はこれを機に第一次長州征討令を出し、諸藩36藩を動員、尾張の徳川慶勝を征討総督に、西郷隆盛を参謀長に任命した。おりしも長州は、前年下関砲台から外国船を無差別砲撃したことに対する報復として、英・米・仏・蘭の四国艦隊から攻撃を受け、賠償金300万ドルを要求されていたこともあって、西郷は「国内の騒乱は外国勢力の侵攻助長につながる」と懸念。また、勝海舟との会談による助言等も考慮し、寛大な措置により、戦わずして長州問題を収める方策をとった。そのため、西郷は、長州藩自らが「禁門の変」を主導した家老たちを処分することによって事態収拾を図り、長州が匿っていた攘夷派公家の五卿を大宰府へ移し保護することで決着させた。こうした西郷の寛大な措置をきっかけとして、長州と薩摩の間に融和への気運が生じてきた。

坂本龍馬と中岡慎太郎の薩長同盟への関与

一方、坂本龍馬は海軍奉行となった勝海舟の下で、「神戸海軍操練所」の塾頭を務めていたが、池田屋事件の折、新選組が斬り込んだ際、浪士の中に海軍操練所の塾生がいたことから、勝は責任を問われて海軍奉行を罷免され、慶応元年(1865年)3月、神戸海軍操練所も閉鎖された。勝は龍馬や塾生など行く宛てのない者の世話を西郷に依頼。家老の小松帯刀は龍馬ら塾生を大阪の薩摩藩邸に引き取り保護した。

同年の5月1日、西郷と小松は龍馬らを伴い鹿児島へ帰国、龍馬は西郷宅や小松別邸などで過ごしたが、この間に薩摩藩の要人たちと会談、長州藩との和解を呼びかけた後、16日には鹿児島を立ち、熊本の横井小楠や大宰府の三条実美を訪問、近いうちに西郷が大宰府を訪問することを告げ、さらに下関に行き木戸孝允に西郷との会談を要請した。龍馬が鹿児島を出立した後、土佐藩を脱藩して以来、七卿(後に五卿)の警護役をしていた中岡慎太郎は、同僚の土方久元(土佐出身)とともに吉井幸輔(友実)に連れられて鹿児島に入り、島津久光に拝謁して薩長和解の必要を説くと同時に、西郷には上京の際、下関に立ち寄り、木戸と会談するという約束を取り付けた。

鹿児島出身ではないふたりの物語

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2016.03.01
  • 著者:東川 隆太郎

薩摩藩が費用を賄い、幕府などにも秘密裡に出航した英国留学生。実は、そのなかにふたりだけ薩摩藩以外の出身の人物がいる。ひとりは堀孝之で長崎の出身である。堀は留学生というよりは通訳として英国に行くことになった。堀家は元来長崎において通詞を職業とする家柄で、孝之も五代友厚や松木弘安とともに長崎から串木野の羽島に向かって合流している。英語が堪能ではなかった留学生らにとって、通訳は欠かさせない存在であり、道中の語学学習に大きく寄与したことであろう。英国から帰国後は、五代友厚のもとで右腕といえるほどの活躍をすることになる。

もうひとりは高見弥一である。この人物は土佐藩の出身で、脱藩して薩摩藩入りしている。脱藩のきっかけになった事件は、坂本龍馬も所属していた土佐勤王党のひとりとして、党にとって厄介な存在だった藩の要職・吉田東洋を暗殺するというものであった。事件後、土佐藩に留まれなくなり、当時は大石団蔵を名乗っていたが、脱藩し名前も変えて薩摩藩で生活することになった。帰国後の高見弥一は、それまでの波乱に満ちた人生ではなく、鹿児島の造士館で教員として後進の育成にあたる堅実な生活を送った。

ドラマあふれる人生を送った森有礼

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2016.02.03
  • 著者:東川 隆太郎

薩摩藩英国留学生の面々は、どの人物もドラマチックな人生を送っているが、中でも森有礼の人生はトップクラスに興味深い。帰国後の経歴を述べてみる。

明治元年(1868年)、イギリスの後渡ったアメリカから帰国した森は、明治政府の徴士、外国官権判事を務める。そこで廃刀論を建議したが、時期尚早だったのか士族層から抵抗があり辞職するに至った。鹿児島に帰郷してからは、現在の冷水町にあった興国寺跡で英学を教える日々を過ごす。しかし海外経験の実績もあり、再び明治政府で外務関係の要職に就く。その間に福沢諭吉らと自由民権運動の思想団体「明六社」を設立するが、政府によって解散に追い込まれている。明治18年(1885年)には伊藤博文内閣で初代文部大臣になるが、明治22年(1889年)の大日本帝国憲法発布の日に暗殺される。まさしく波乱万丈との表現があまりにもふさわしすぎる人生といえる。

かつては攘夷論者だった畠山義成

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2016.01.01
  • 著者:東川 隆太郎

留学生のすべてが始めから英国行きに前向きだった訳ではない。特に外国に対して斜めな考えを示す人物もなかにはいた。そのひとりが畠山義成である。出発に際して串木野羽島でしたためた歌に、その気持ちが表現されている。「かかる世にかかる旅路の幾度かあらんも国の為とこそ知れ」。まさに国のため、主君の命ならば、という思いだったのであろう。

しかし、畠山は実際に西欧に触れ、大きく考えを変えるようになる。なぜ分かるかというと、畠山は英国のみならず米国にも渡り、明治元(1868)年にはラトガース・カレッジに入学して法律や政治、社会科学などを勉強しているからだ。攘夷論を唱えていた人物とは思えない行動である。それだけに海外で得た刺激が相当のものであったことが想像される。

明治4年(1872年)、岩倉全権大使の随員辞令を受け、外交関係で活躍し、翌年帰国する。その後の功績は教育界でのものに集中し、現在の東京大学の前身である東京開成学校の初代校長に就任するなどしている。ただ、同じく留学し教育関係で活躍した森有礼とは、友情こそ失うものではなかったが、教育に関しては相いれないこともあったという。

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