洋学所「開成所」の開設
(著:鹿児島市維新ふるさと館特別顧問福田賢治氏)
1.幕府の「開成所」
幕末、ペリー来航以来、幕府は外国の文化や技術などの導入を必要とする上から、安政3年(1856年)江戸神田小川町に翻訳や辞書の発行などを主務とする洋学校「蕃書調所」を開設した。ここは外国使節との応接所にもなったが、その後、文久2年(1862年)神田一ツ橋門外に移設、名称も「洋書調書」と改められた。さらに翌年にはこれを「開成所」と改め、蘭学中心から次第に英語、仏語、独語などを加え、西洋の新しい学問研究へと進み、後の東京帝国大学の一部となった。
2.薩摩の「開成所」
薩英戦争により攘夷の不可能を知った薩摩藩でも、西洋の進んだ技術や文化を導入する機運が急速に高まり、外国語修得の必要を感じたことから、幕府の洋学所「開成所」に倣い、鹿児島城下の小川町庄内屋敷(都城屋敷)跡に、元治元年(1864年)「開成所」を開設、本格的に西洋の学問を教えたのである。薩摩では、洋学校の設立構想はすでに島津斉彬時代からあり、斉彬は石河確太郎らに命じていたが、斉彬が急死したために途絶えていたのである。
庄内屋敷は海岸に面した広い屋敷であり、学問だけでなく海陸軍の調練場としても都合がよかったため、庄内屋敷を祇園之洲(今の石橋公園付近)にあった重富屋敷に移転させ、その跡地に建設したのであった。
3.開成所の優れた人物を「薩摩藩英国留学生」として派遣
この開成所教授には、斉彬の集成館事業を手がけた蘭学者の八木称平、石河確太郎らをはじめ、外部からは、英語学者の前島密(日本郵便の父)やジョン万次郎(中浜万次郎)なども招かれた。生徒は藩内から選ばれた優れた人物60~70人が学び、それぞれの等級ごとに手当も支給されていた。教科は、英語、蘭語のほか海陸軍砲術、兵法、数学、物理、医学、地理、天文学、測量術、航海術などの西洋の進んだ技術や学問の修得であった。
薩摩は慶応元年(1866年)、イギリスへ4名の使節団と15名の留学生を送りこみ、ロンドン大学などで学ばせるが、その人選にあたっては、開成所出身の優秀な人物を中心に選出したのである。しかし、この開成所も幕末の急激な世情の変化に伴う藩の軍制改革によって、軍にかかわる教科が分離し、単なる教科学習の域にとどまったため、後に藩校「造士館」に移ることになるが、薩摩藩英国留学生として派遣された人々の多くは、その後、近代日本建設のあらゆる分野でめざましい活躍をみせたのである。