明治維新と薩摩藩

廃仏毀釈の嵐が吹き荒れる鹿児島藩

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2019.02.01
  • 著者:東川 隆太郎

明治2(1869)年は、鹿児島の寺院にとっては受難の年となりました。それは廃仏毀釈と呼ばれる出来事で、藩内にある1066寺を全て廃寺にするという動きがあったためです。こうした動きは、すでに島津斉彬が藩政を担っていた時期からも徐々に始まっていましたが、島津家ゆかりの寺院にまで及んだのは明治2年のことでした。
明治新政府によって、明治元年に「神仏分離令」が発布されたことがひとつの転機となり、動きは加速されることになりました。また、明治2年に島津忠義の夫人の葬儀が仏式ではなく神式で実施されることになったことも影響が大きかったとされています。
こうして、島津忠良の菩提寺であった日新寺や島津貴久の菩提寺であった南林寺も、例外なく廃寺となります。明治維新の影で鹿児島では、貴重な仏教文化や美術が失われる不幸な出来事があったのです。

凱旋兵士による藩政の掌握

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2019.01.04
  • 著者:東川 隆太郎

戊辰戦争に従軍した薩摩藩兵は、約6000人でした。彼らは、北越や東北などの戦況に応じて鹿児島に帰郷し、勝利の勢いと共に藩庁に対して藩政の改革を要求するようになります。
こうした凱旋兵士は鹿児島城下の下級武士が中心で、戊辰戦争開始以前から急進的な倒幕論者が多い傾向にありました。特に指導的地位にあったのは、川村純義や伊集院兼寛などで島津久光に対して門閥の打破や能力や功績に応じた人材の登用を建白しました。当時の島津久光は、子息らが門閥として藩政の中枢にあることから、こうした要求に対してはそれなりの苦悩があったと考えられます。そのため、久光は新政府の仕事に従事している小松帯刀や吉井友実らを帰国させて、凱旋兵士の対応を命じています。また、明治2年には大久保利通も帰郷させています。
さらに西郷隆盛にも藩政に復帰するように促し、島津忠義は日当山温泉に湯治中の西郷のもとに訪ねています。このように、明治元年から2年にかけては、薩摩藩にとって、また島津久光ら藩の首脳にとっても、これまでにない問題の解決を迫られる時期でありました。

明治元年を忙しく過ごした小松帯刀

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2018.12.10
  • 著者:東川 隆太郎

明治新政府の樹立によって忙しさが増したのは、西郷や大久保ばかりではありません。薩摩藩の家老であった小松帯刀も、藩の仕事よりも新政府の仕事に尽力した年でした。まず、役職としては1月28日に参与兼外国事務掛を命じられます。これは外国との交渉などを行う役で、各国に交渉事などは徳川幕府に代わり、新政府が行うことを通告してからの対応となりました。

小松が外国事務掛に就任してすぐに、堺において土佐藩士がフランス水兵を殺害する事件が発生し、この事件の対応が最初の大仕事となりました。その他、長崎の浦上で発見されたキリスト教徒らの処置にも尽力しました。このように、様々な案件を抱える毎日でしたが、多忙も影響してか、体調不良も表面化してきます。

小松は、能力と人望に恵まれているだけに、明治に入ってますます忙しく生きることを強いられたのです。

新政府の始動と西郷・大久保

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2018.11.28
  • 著者:福田 賢治

(文:鹿児島市維新ふるさと館 特別顧問 福田賢治氏)

○ 新しい国家の体制づくり
 王政復古を声高に発した朝廷、および薩長土肥を中心とする新政府の要人たちは、まだ戊辰戦争の完全な終結をみないうちに、新国家の体制づくりに取りかからねばならなかった。その中心は三条実美、岩倉具視、大久保利通、木戸孝允らであった。
 西郷はこの時期、専ら戊辰戦争終結に力を注いでいたが、会津、長岡、庄内と東北の雄藩が降服したことを受けて、東京に帰ってきた。東京では薩摩藩主の島津忠義が、あらたに新政府の軍務総督として任命され、天皇から佩刀も賜っていた。これを知った西郷は忠義に軍務総督を辞退させ、佩刀も返上させて忠義と共に鹿児島へ帰国、自らも中央政界から身を引いたのである。
 西郷は、当時、新政府の要人や軍事担当者など広範に亘り薩摩が主導していたが故に、世間では、「幕府は瓦解したが、今度は薩摩政府が誕生するのではないか」との風評があった。その疑念を払拭するとともに、新政府始動にあたっては、民衆を含めた新しい近代国家建設の出発点としたかったのである。
 西郷は以後、明治4年1月に上京するまで、政府の再三にわたる中央政界復帰要請にも関わらず、鹿児島に留まったのである。国が一つにまとまり、近代国家建設という「順聖院様(斉彬)の御深意」を達成し、これで「自分の使命は終わった」との思いがあったのであろう。 

○ 新政府の課題と中央政界への西郷呼び戻し
 しかし、政府の要人たちが西郷を野に置いておくはずもなく、旧来の主従関係に基づく地方政治から「中央集権国家」へと変貌するには、西郷は欠かせない重要な人物であった。新国家の体制づくりには、土地や人民を朝廷に還す「版籍奉還」、旧藩主や門閥派の影響力を排除するための「廃藩置県」、国家財政の安定化のための「地租改正」、国の防衛・治安維持のための「徴兵制度」や「警察制度」、国民の文化・教育向上のための「学校制度」、それに「産業の育成」と課題が山積していた。なかでも、最も重要な課題が「廃藩置県」であり、これを断行すれば、また全国的に大騒乱が起こると予想された。事実、明治4年7月の廃藩置県の実施については、政府部内でも激論が展開されたのである。
 こうした事態が予想されたため、明治3年1月大久保利通は、中央政界に西郷を引き戻すため鹿児島に帰国、久光と西郷の上京を掛け合ったが、久光は同意しなかった。西郷は日当山温泉で療養していたが、島津忠義がわざわざ日当山まで西郷を訪ね、「鹿児島の改革に力を貸して欲しい」と要請したため、鹿児島の藩政改革にかかわっていた。それ故、久光と西郷を中央政界に引き戻すには、どうしても久光の同意が必要だったのである。  

○ 大久保利通と久光の決別
 西郷本人も中央政界復帰の意思はなく、本人説得のために従弟の大山巌や弟の西郷従道も帰郷し説得に当たった。久光は新政府の欧化政策に不満を持っていたという。そのため大久保たちの説得工作は困難を極め、明治3年1月に帰国以来、9回にわたり久光と面会し激論を交わしたが失敗し上京へ戻ったが、久光説得には勅使を派遣する以外にないとして、再びその年の12月18日、岩倉具視を勅使とし、西郷と親しい山県有朋(長州)、川村純義(西郷従兄弟)を伴い鹿児島へ来た。勅使が来たとあっては久光も拒否できず、自分は病気のため来春上京すると返事、西郷の上京を許可した。こうして西郷引き出し問題は、約1年を要してやっと実現した。しかし、それまで主従関係で固く結ばれ、安政6年(1860年)から10年間続いた久光と大久保の信頼関係も、この件をきっかけに完全に瓦解し、以後、大久保の心は久光から完全に離れていったのである。

慶応4・明治元(1868)年の忙しい大久保利通

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2018.11.01
  • 著者:東川 隆太郎

西郷吉之助にとって、150年前の慶応4年と明治元年は戦場に赴く時間が多い年でもありました。一方、大久保利通は前線で活動よりも後方支援または新政府の樹立に向けた活動に勤しむ日々を送っていました。そのなかでも大仕事のひとつが、翌年に実現する都を東京へと移す東京奠都です。始め大久保は、大坂への奠都を計画しますが太政官で否決されてしまいます。そうしたなか、江戸城の開城などによって7月17日に江戸の名称を東京と改めることにし、天皇の東京行幸を推進します。こうして10月13日に天皇は、江戸城に入って東京城と改名し、翌年の3月28日に東京城は皇城こと皇居と定められます。まさに、江戸を救った西郷と東京をつくった大久保といえる大仕事でした。

庄内藩と西郷のつながり②

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2018.10.02
  • 著者:東川 隆太郎

東北戦線における庄内藩の余力を残しての降伏は、彼らに対する寛大な処置にもつながりました。ただ、その寛大さは庄内藩士らにとって驚きであったようで、直接降伏に関与した黒田清隆の上司・西郷吉之助に興味が抱かれることになりました。

まず明治3(1870)年11月、庄内藩最後の藩主であった酒井忠篤ら一行約70名が、西郷に会うことを目的として鹿児島を訪れます。酒井公らは翌年の3月まで鹿児島に滞在し、親交を深めました。さらに明治8(1875)年5月にも旧庄内藩士の菅実秀など8名が鹿児島を訪れ、20日間ほど滞在しています。

西南戦争を経て、明治22(1889)年の大日本帝国憲法発布をきっかけとして西郷の賊名が除かれた際、この時を待っていたかのように、かつて親交を結んだ菅実秀が中心となり「南洲翁遺訓」が編纂されることになります。これは西郷の哲学を知る上でも重要な書物ですが、庄内藩士らとの交流がなければ生まれることのないものであったのです。

戊辰戦争

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2018.10.01
  • 著者:福田 賢治

(文:鹿児島市維新ふるさと館特別顧問福田賢治氏)

○鳥羽伏見の戦い
 慶応3年(1867年)12月9日、王政復古が宣言され天皇親政が始まった。その2週間後の12月23日、江戸城二の丸が焼失、これは日
頃江戸市中の治安を攪乱する浪士による仕業だとし、また、江戸の治安にあたっていた庄内藩の屯所に鉄砲が打ち込まれたことから、庄内藩など
約2千人が浪人などの逃げ込む先であった薩摩藩邸を焼き討ちし薩摩藩留守居役の篠崎彦十郎ら50人程が死亡、50人余りが捕らえられ、残り
は停泊していた薩摩船に逃れた。
慶応4年1月3日、将軍慶喜は「討薩の表」を掲げ、諸藩にも出兵を指示し、幕府軍は京都の薩長軍5千の兵を目指して鳥羽、伏見の両街道か
ら進軍、「鳥羽伏見の戦い」が始まった。
しかし新政府は「錦の御旗」を掲げ、近代的装備と訓練された薩長軍を以て対抗、幕府軍はもろくも敗れた。しかも慶喜は、錦の御旗をみて戦
意を失い、会津藩主松平容保らを伴い、軍艦「開陽丸」で江戸へ逃げ帰り、自ら寛永寺に謹慎した。そして大奥の静寛院(和宮)や天璋院(篤姫)
に対し、朝廷へのとりなしを依頼した。こうして幕府軍は一挙に崩壊、政府は近畿以西のすべての地域を支配下に置くことになった。


○ 西郷・勝会談と江戸城無血開城
 慶応4年2月3日「征討の大号令」が発せられ、西郷は大総督府参謀となり、2月15日には東征軍が江戸へ向けて進発した。西郷は薩軍を率
いて東海道を進み、駿府(静岡)へ入った。5日に駿府に入った東征大総督は「3月15日をもって江戸城総攻撃」を全軍に伝達した。
これに対し、幕府は勝海舟を陸軍総裁に任命した。勝海舟は山岡鉄舟に西郷宛の手紙を持たせ、薩摩藩邸焼き討ち事件の際の人質益満休之助を
随行させ、西郷の元へ派遣した。西郷は勝が山岡に託した手紙を読んだのち、徳川氏処置を寛大にするための前提条件として、「江戸城明け渡し」
など七項目を山岡に提示したが、山岡は「将軍慶喜公を臣下の備前藩に預けるのだけは承知できない」と強く主張した。西郷は「慶喜公の処分に
ついては自分一人の考えでは決められないが、自分が責任をもって取り計らうので、とりあえずこの七項目を勝先生に見せてほしい」と山岡に話
して帰した。
その後、西郷・勝会談が、3月13日高輪薩摩藩邸で、14日は田町の薩摩藩蔵屋敷で行われた。勝は護衛もつけず一人で馬に乗ってやってき
た。勝は江戸城引渡しや慶喜の助命、徳川家存続など、改めて条件を付して西郷に提示した。西郷は勝の誠意に応え、その場で「明日の江戸城総
攻撃の中止」を決定して全軍へ伝達させた。西郷は直ちに上京し、「慶喜の死を免ずるよう」新政府の要人たちを説得、また、「慶喜の身柄は水戸
藩にお預け」、「徳川家の存続及びその後継者を田安亀之助( 家達)とする」など、ほぼ勝が提示した条件を満たす形で新政府の了解を取り付け、
急ぎ駿府に帰り大総督にも報告した。
こうして4月11日、江戸城の無血開城が行われたが、大奥では天璋院が納得せず、勝は事前に天璋院説得にも当たった。また、こうした新政
府の処置に不満を持つ幕臣たちは、上野の寛永寺に籠り、「彰義隊」と称して政府軍に抵抗する構えを示したため、政府軍は5月15日、大村益次
郎を総大将として寛永寺を攻撃、一日にしてこれを鎮圧した。西郷率いる薩摩軍は、最も激戦が予想された南面正門(黒門)から進撃しこれを打
ち破った。上野戦争終結後、徳川家には駿河70万石が与えられ、田安家の亀之助が徳川家を継いだ。


○ 「奥羽越列藩同盟」と東北戦争
 東征軍はさらに北上したが、仙台・米沢など東北14藩は白石城に会して輪王寺宮を総裁に立てて同盟を結び、会津藩赦免を新政府に嘆願した
が拒否された。そのため新たに「奥羽同盟」を結び、再度征討の中止を政府に嘆願したがこれも拒否されたことから北越の6藩も加わり「奥羽越
列藩同盟」を結び会津藩、庄内藩も加わり、政府軍と全面対決となった。しかし、装備や兵力に勝る政府軍によって長岡、仙台、米沢が次々降服、
9月22日には会津藩、26日には最後に残った庄内藩も降服して東北戦争は終結した。


○函館戦争
 東北戦争はこうして収まったのであるが、旧幕府海軍副総裁であった榎本武揚は、江戸城開城と同時に8月19日、「開陽丸」など幕府の軍艦
4隻で館山を出港して10月20日函館に上陸し、五稜郭を拠点に北海道全土を支配した。これには新選組副長の土方歳三や旧幕臣の大鳥圭介を
はじめ、約2千人余りが同行した。このため政府は、翌年(明治2年)3月黒田清隆を参謀として5月海陸両面から五稜郭攻めを敢行させ、黒田
は降服するよう説得し5月18日、ついに榎本、大鳥はじめ数百名が降服、函館戦争は終結した。黒田は榎本武揚の人物にほれ込み、自ら坊主と
なって助命嘆願したため、榎本は死罪を免れた。

庄内藩と西郷とのつながり その①

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2018.09.06
  • 著者:東川 隆太郎

明治元(1868)年9月27日、西郷吉之助は山形の庄内に到着する。その直前まで長岡藩の激しい抵抗により、苦しい戦いが続いていたなかでの庄内入りであった。
庄内藩は、前年暮れに江戸で発生した薩摩藩邸焼打ち事件に深く関与しており、藩主である酒井忠篤は新政府軍に対して帰順降伏したものの、厳しい処分は免れないと覚悟していた。

しかし、西郷吉之助の指示を受けた参謀の黒田清隆の対応は丁寧で、処分に関しても驚くほどに寛大なものであった。その処置のおおまかな内容は、藩主らの謹慎と国替えではなく賠償金の支払いというもので、新政府が会津藩に下した処分に比べると極端に緩やかなものであった。

この西郷の配慮のある処置に感銘を受けた庄内藩士らは、後に西郷と交流を結ぶことになる。

戊辰戦争で亡くなった西郷吉之助の弟・吉二郎

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2018.08.01
  • 著者:東川 隆太郎

戊辰戦争のうちでも、「難儀は越後」として伝わる激戦地、現在の新潟県。そのなかの三条市を流れる五十嵐川沿いの戦いで、西郷吉之助の弟・吉二郎は致命的な傷を負いました。江戸や京都での勤め、または奄美諸島への配流などで長男でありながら家を空けることが多かった吉之助に代わり、西郷家を支えていたのは次男の吉二郎でした。

戊辰戦争は初めての藩外での活躍の場であったにも関わらず、吉二郎は慶応4(1868)年8月2日に戦場で負傷します。その後髙田(現在の上越市)の病院に搬送されますが、14日には帰らぬ人となりました。
その報を聞いた西郷は、激しく悲しんだと伝わります。また、年齢的には自分が兄であるが、家を支えてきた吉二郎の方が兄のような存在であったとも述べています。

吉二郎の墓を管理する髙田日枝神社の神主に、吉之助は祭祀料を遣わしています。戊辰戦争は西郷家にとっても悲しい戦争でありました。

「難儀は越後」の北越戦争は大激戦地

  • 明治維新と薩摩藩
  • 2018.07.01
  • 著者:東川 隆太郎

西郷隆盛や黒田清隆も戦地に赴いた北越戦争。新政府軍と対立した長岡藩は、「武装中立論」を唱えて会津藩とも当初は行動を共にしていなかった。この論を唱えたのは筆頭家老であった河井継之助で、江戸藩邸を引き払う際に藩主の牧野家が所有する家宝などを売却。それを資金にして最新鋭の武器である「ガトリング砲」を2門購入するなどして武装体制を整えていた。慶応4(1868)年5月2日、小千谷の慈眼寺で新政府軍の軍監である岩村精一郎と河井継之助が談判。しかし、交渉は決裂して長岡藩と新政府軍との戦闘が開始されることになる。

こうして長岡藩は、ようやく会津藩らと同盟を組むことになり、北越全体を巻き込む全面戦争に突入する。この激戦の現場には、西郷隆盛の弟である吉二郎もいた、鳥羽伏見の戦いに病気で参戦できなかった悔しさを抱えながら戦場へ赴いていたのだ。

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