坂本龍馬とお龍 謎だらけの鹿児島城下での生活
慶応2(1866)年3月5日に大坂を出航した龍馬らは、下関や長崎を経由して10日には鹿児島城下に到着した。その後16日から霧島への旅行に出かけ、4月12日に鹿児島城下へ戻る。そして6月1日に鹿児島城下を桜島丸にて離れ長崎へと向かっている。
つまり寺田屋襲撃以降の鹿児島潜伏期間は、約3ヶ月であり、そのうちの約2ヶ月は鹿児島城下に滞在していたと考えられている。その間の滞在先のひとつが、小松帯刀が原良に所有していた別邸だ。
現在は個人宅の中に庭の一部が残り、その築山からは桜島を望むことができる。また龍馬の記録によると4月14日には「改正所」に行ったとしており、これは薩摩藩が設置した洋学校の開成所と考えられる。他にもお龍が後に残した証言記録に、上町に屋敷を設けられたことが語られている。また、龍馬と親交もあった中村半次郎こと桐野利秋の妻の証言によると、吉野は実方の自宅に龍馬が訪ねて来たとある。鹿児島城下での行動が正確に把握されていないだけに、実方訪問は興味深い。詳細に行程などが記録された霧島旅行と違い、鹿児島城下での滞在は謎な部分も多いが、それだけにいろいろと想像が膨らみ面白い。