廃仏毀釈の嵐が吹き荒れる鹿児島藩
明治2(1869)年は、鹿児島の寺院にとっては受難の年となりました。それは廃仏毀釈と呼ばれる出来事で、藩内にある1066寺を全て廃寺にするという動きがあったためです。こうした動きは、すでに島津斉彬が藩政を担っていた時期からも徐々に始まっていましたが、島津家ゆかりの寺院にまで及んだのは明治2年のことでした。
明治新政府によって、明治元年に「神仏分離令」が発布されたことがひとつの転機となり、動きは加速されることになりました。また、明治2年に島津忠義の夫人の葬儀が仏式ではなく神式で実施されることになったことも影響が大きかったとされています。
こうして、島津忠良の菩提寺であった日新寺や島津貴久の菩提寺であった南林寺も、例外なく廃寺となります。明治維新の影で鹿児島では、貴重な仏教文化や美術が失われる不幸な出来事があったのです。